2013年4月29日月曜日

96条問題

96条問題は過半数と憲法裁判所の承認とすべし
         参議院の廃止と憲法裁判所の創設を急げ


1945年、8月末にマッカーサーが厚木に到着した。彼が最初にやったことは武道禁止令と植民地憲法創設であった。到着前には旧日本海軍将校らが千五百名によるマッカーサー暗殺を計画し、さらに着陸をボイコットするため飛行場は戦闘機の残骸と廃棄物が散乱していた。それらの問題を海軍省は一週間で五百万円の予算で土建屋、安藤明に請け負わしたのである。
武道禁止令は、千年にわたる武家政治が続き、その結果世界中が恐れた官僚の質実剛健、清廉潔白、公明正大さに対して、敗戦国が二度と立ち上がれない奴隷民族にするために、武士道精神を排除するため行われたマッカーサーの政策であった。さらには日本の教育を植民地愚民白痴化にするために優秀な教師を選出する師範学校を禁止し、劣悪教師の乱造を図るための改革であった。憲法の骨子は明治憲法と異なり自由平等、主権在民、軍事放棄の三色を中心に考えられたものである。その自由は履き違えた自由に変わり自己中心型人種を大量に生み出すことになった。平等は名ばかりのもと、平等どころか間違った富の配分を作る結果になってしまった。主権在民は愚民化された愚民主権であり、その結果衆偶政治による無責任な金権腐敗堕落政治がはびこってしまったのである。このような植民地奴隷化憲法は1952年サンフランシスコ講和条約後に独立国としての新日本憲法を創設すべきであったものの、売国政治家たちは植民地のままだらだらと憲法については積極的に行動せず放置してきたのである。

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